副会長 武田和春より発信します。

この地、山梨県大月市初狩町の瑞龍庵跡には、戦国末期に郡内領主
であった小山田信茂公の首が眠っている。
伝承によれば、従者が首を盗み郡内三嶋神社に隠した。
これを口実に織田・徳川連合軍が郡内に攻め入ることを恐れ、
点々としたが最後に初狩・瑞龍庵に隠されたとされる。
瑞龍庵跡には、現在、信茂公の顕彰碑と石碑が建ち 
「江戸期の儒家が忠孝を説き、治世の基本とした。
戦国の信茂公が後の規範で律せられるのは嘆かわしい」
と碑文に書かれている。

顕彰碑
石碑

           碑 記
此處中初狩藤嶋の地は詳雲山瑞龍庵竝びに地蔵堂跡で瑞龍庵
は側子無量山福聚院の子院である 福聚院の本寺は都留市金
井の富春山桂林寺で元禄初年その中興四世湘外祖景が瑞龍庵
開山となったものと思はれる 瑞龍庵は桁間五間半梁間三間
半の本堂兼庫裡を有したが明治四拾年の水害により流失した
甲斐国誌古蹟部に「小山田古墳」として(中初狩上の原より
西南の山足藤嶋と云ふ地にあり随龍庵の側なり古き石塔あり
士人相傳へて小山田氏の墳塋なりと云ふ)とあり 今僅かに
湘南塔の一古塔礎を残すのみであるが 小山田氏 桂林寺
福聚院 瑞龍庵 の脈絡の中で当庵に小山田氏墓所あるも不
自然ではない 信茂公法名は羽根子長生寺過去帳に依れば
  青雲院殿武山長文大居士  天正十壬年三月二十四日
              小山田出羽守叓 四十三才
惟ふに戦國以来時移り江戸期に入って朱陽の儒家 忠孝順逆
の説を普遍して徳川治政の礎となす 則ち順逆は後世の所説
で独り信茂公戦國に生きて後世の規範に律せらる概嘆之に過
ぐるものなし 此度有志相集らて公を顕彰するの建碑に際し
聊か公の為その長怨を雪かんとする
          暗鎖明月五百歳  随龍山邊遺恨長
          山嶺朔風断星雲  瀟々奉天正悲歌  
        昭和六十一年八月吉日 澤望鴈 撰并書