1.武田勝頼

1)武田勝頼を偲んで 新府城~田野を歩く

2016年5月1日
折笠 公徳

2022年4月25日 原稿投稿

『おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山のは』
勝頼の辞世の句。
武田家を、夜明けには消えていく雲や霞に例えている、物悲しい句である。
だが、勝頼の人生をここまで悲惨なものにしたのは、決して勝頼自身だけの
失策ではなかったはずだ。
小生は、お遍路さんの様に、武田勝頼を偲んで、武田勝頼の逃亡を辿り、
武田勝頼の思いを察し、武田勝頼が最後神仏に頼る理由を知る。

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2.松姫

1)松姫様一行 避難経路の考察      

令和2年5月31日
武田 和春

2022年4月20日 原稿投稿

ここ大月市には天正10(1582)年3月23日山梨市向嶽寺から、武田信玄の息女松姫一行が織田・徳川連合軍による甲州征伐の際、現在の八王子市立上恩方第二小学校校庭に旧跡として残されている当時、金照庵という草庵たどり着いたといわれている道筋が、「信松院松姫逃避ルート」に掲載されている。

この避難経路については諸説あるが一行には当時高遠城主であった仁科盛信の娘(督姫)、腹違いの兄勝頼の娘(貞姫)、人質である小山田信茂の娘、又は養女(香具姫、又は香貴姫?)、更に盛信の子◎◎◎◎を伴い盛信の部下十数名が護衛として先述した向嶽寺まで、高遠城から向嶽寺まで到着した。

  
その後、武田家の菩提寺である、蕓法寺から大菩薩峠(2000ネートルに近い尾根道が続く)を越えて現在の松姫峠、小菅村までの尾根筋を通るのは、時季的に不可能ではと思われ、伝承が残る秩父大道の裏街道的な役割を果たしていた古甲州道を避難したと考えるのが妥当であると思われる。

  
古甲州道とは、甲斐九筋の全ての始発地と言われた、現在の酒折の地から萩原口ー大菩薩峠ー小菅ー檜原ー府中(東京)迄の道を言う。(古道 古甲州道 小富士道・大菩薩峠を越えた古道 武蔵府中~甲斐府中=揺藍社版より)
江戸期の甲州街道は徳川氏の全国支配の一環として、東海道の宿駅整備を命ずる定書が慶長6(1601)年出され同時に甲州街道も開設されたと言われている。

  
松姫一行の通った古甲州道は、大月市の扇山、百蔵山の北側の道筋が裏街道と思われ、往時親鸞聖人も建保2(1214)年に信州から常陸へ移られ彼の地に8年ほど滞在し関東各地を教化された際に通り、当時は自覚院(開創、1128年・宗派は天台宗)としていた大月市にある浄土真宗のお寺である正念寺(改宗は1228年、よって親鸞聖人がこの年の10月23日頃から何日か滞在か?)が、扇山中腹の地にあり、1594年から1603年の間に火事に遭い大月に寺を構えた。

 
このことから、現在住人が建立した記念のお堂が残り、現在でも10月23日頃を中心に正念寺のご住職様においでいただきを大月市の浅川地区の方と上野原市棚頭地区約20世帯ほどの門徒様が集い記念のお祭りを開催している。残念ながらこの街道にある浅川峠は昨年の台風で崩壊し不通になっているが、十数年前には両地区を結ぶ道路建設の話が、両市で為されていたが現在は、忘れられているとのことである。今でも浅川峠の東西麓(大月市と上野原市)住民は交流が続いていると小山田信茂公顕彰会の小俣公司会長が今春に実施見聞して確認している。  

 
次に上野原市と八王子市間であるが古甲州街道は浅川峠を越え野田尻-鶴川-上野原-和田(案下)峠-恩方(八王子市)間が古くからの道筋であり、聖護院門跡准后道興も長享元(1487)に滝山(八王子市)から甲斐国に入る時に通ったとされている。

 
更に、には、『鎌倉大草紙』によれば関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという[6]。文明19年(1487年)には聖護院道興『廻国雑記』において、道興が小仏峠を越えて当地を訪れ、猿橋の伝承と猿橋について詠んだ和歌・漢詩を記録している[7]。

 
室町時代戦国時代には、『勝山記』永正17年(1520年)3月に都留郡の国衆・小山田信有(越中守)が猿橋の架替を行っている[8][9]。この信有による架替は、小山田氏の都留郡北部への支配が及んだ証拠とも評価されている[10]。猿橋は天文2年(1533年)にも焼失し、天文9年(1540年)に再架橋されている[11]。

 
『勝山記』によれば、大永4年(1524年)2月11日に甲斐守護・武田信虎は同盟国である山内上杉氏の支援のため猿橋に陣を構え、相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ出兵し相模の北条氏綱と戦い、「小猿橋」でも戦闘があったという[12][13]。戦国期に小山田氏は武田氏に従属し、『勝山記』によれば享禄3年(1530年)正月7日に越中守信有は当地において氏綱と対峙している[14][15]。『勝山記』によれば、留守中の3月には小山田氏の本拠である中津森館(都留市中津森)が焼失し、4月23日に越中守信有は矢坪坂の戦い(上野原市大野)において氏綱に敗退している[16]。

 
また、猿橋には国中の永昌院(山梨県山梨市矢坪)の寺領も存在していた[17]ことから松姫一行もこの街道を通ったと推定される。

 
甲斐と武州の境の小仏峠(標高570m)は峻険な山容で通行はされていなかったが、永禄12(1569)年の武田軍による小田原攻めのとき郡内領主である小山田信茂隊がこの峠を新道として開削し滝山城(城主北条氏照)を奇襲したと甲陽軍鑑に記されており、これ以降本道になった。

  

甲州街道(郡内)
 赤:松姫ルート(古甲州街道1)
 黒:小仏峠ルート(小山田信茂開削:古甲州街道2)
 青:江戸期の甲州街道

参考:「松姫様逃走経路の確認(信松院絵図からの一考察と小山田信茂公の英断」
    小山田信茂公顕彰会 会長 小俣公司
   「甲斐道」山梨郷土研究会

 

2)武田家再興のものがたり ~松姫と香具姫~

小山田隆信

2022年4月25日 原稿投稿

目 次

はじめに
1.郡内小山田氏と甲斐武田氏
2.小山田氏と武田氏の関係
3.松姫と織田信忠
4.松姫の逃避行
5.香具姫
6.小山田家と再興武田家の関係
おわりに

はじめに

「松姫さま」と言えば、戦国時代の悲劇のヒロインとして、多くの人が思い
浮かべることでしょう。

ご承知のように、武田信玄の娘で、織田信長の息子・信忠と婚約をしました。
これは同盟のために、織田側が申し入れて成立したことですが、やがて織田
の裏切りが発覚し、婚約は自然破棄となりました。
しかし、松姫は信忠を生涯の夫と心に決めて、他の縁談には耳を傾けなかった
と言われます。

織田・徳川連合軍が国中に迫ってきたとき、松姫は幼い3人の女子を連れて
八王子まで逃げました。
その幼子の一人が、小山田信茂の娘・香具姫です。
松姫のお蔭で、香具姫は生き延びることができました。

これが武田家再興につながってゆきます。

内容

内容はこちらをご覧ください。

おわりに

我国時代の女性に関わる記述は、「武将たちの娘は、戦や外交の道具として、
政略結婚させられた」というものです。
人間としての意思は認められず、不幸な存在であったという見方がほとんど
のように思われます。

それは事実であったでしょう。

しかし、自領や自国を守るために、男性も自分の意思を抑え込んで、
子どもや妻や母親や肉親を他国の大名や領主に人質として差し出していました。
戦国武将とて、子の命を大事に思わない親はいなかったでしょうが、
領地と領民を守るためには、同盟を結び、相手から侵略を受けないようにする
必要がありました。
そのために、保証として一番大切なものを差し出したのです。

そして、相手との関係が悪くなった時、妻を離縁したり、親元へ送り返してから、
戦に突入した武将もいます。
だが、多くの場合、相手の裏切りを知ったとき、人質は殺害される運命でした。
決して命が軽かったわけではないでしょう。

命を懸けて、領地領民を守り、「名」を惜しんだのでしょう。

誰もが、常に「命がけで生きた」時代なのです。

謝辞

本冊子を作成するに当たり、大勢の方のご指導を賜り、また、多数の資料を
参考にさせていただきました。厚く御礼申し上げます。
ご意見ご感想をいただければ幸甚に存じます。

                             小山田隆信

  

3)浅川探索 松姫東下の道?

2022年6月4日 小俣公司、島崎晋一

2022年6月7日 原稿投稿

提案:小俣。文作:島崎と小俣。 実地踏査:小俣と島崎です。

1,目的

松姫東下の道は浅川を通ったと推測し、浅川の探索をした。

2,日時等

日時:令和4年6月1日(水)10:30~12:10
人員:小山田信茂顕彰会小俣会長、島崎副会長

3,調査項目

(1)古道(鎌倉街道?) 葛野から浅川への道
(2)浅川
 ①指さし地蔵尊、寛政の道標
 ②浅川不動尊
 ③その他

4,探索内容

浅川探索レポート PDF

考察 PDF

  

おわりに

以上、計画無しに連絡を取りあい以前から提唱している、小山田信茂公顕彰会長としてもう一段踏みこんだ調査を以前から、実施したいと思っていたことが、実現できたこと、望外の喜びです。
今回の探索で、改めてこの道・西奥山、とづら峠(つづら峠?)。東奥山、畑倉、葛野、浅川、棚頭線を、松姫様達は東下した事を再確認できたと確信を持つことができました。

大月市内の各地、各所には思いもよらない歴史が隠れていると思います。
大月の歴史、遺産、遺物等々を皆さんで新たに目を向けてお互いに学習し合いませんか。