1.第17代左兵衛尉信茂

天文8年(1539)小山田出羽守信有の嫡男として郡内谷村城に生まれました。

天文21年(1552)信茂は14歳で家督を継ぎました。翌22年には桂川の岩殿橋も架けかえられ、郡内には富士参拝者があふれるほどでした。

天文23年には、武田信玄公の息女黄梅院が小田原北条氏に嫁ぐにあたり、信茂は「蟇目(ひきめ)」役という大役を立派に果たしました。お供の騎馬3千騎、人数は1万・・・金銀の鞍、黄金づくりの太刀などという盛大な祝儀を、信茂は終始堂々と取り仕切ったと言われています。

このことは、信茂の才覚はもとより、少年信茂を支える側近の人達の連携の強さと、小山田3代に対する深い信頼を物語っていると思われます。

戦(いくさ)においては、武田軍中、小山田勢は最強の軍団と言われました。

小山田隊には投石の技を磨いた者たちがいて、その投石の飛距離は200~300メートルに達しました。鉄砲が優勢になるまでは大きな威力を発したに違いありません。

こうして先陣に立って活躍した信茂は、「文のことは信茂に聞け」と信玄公に言われるほど、文武両道の武将でした。永禄4年(1561)には、武田家の「弓矢の御談合」七人衆に加えられます。

 2.小山田信茂公 主要年譜

・天文8年(1539) 小山田信茂誕生 小山田出羽守信有の嫡男として郡内谷村城に生まれる

・天文24年(1555)  第2回川中島の戦い 兄に代わって初陣を張る(信茂16歳)

・弘治3年(1557) 第3回川中島の戦い 再び郡内勢1200人を率いて出陣する(信茂18歳)

・永禄4年(1561) 第4回川中島の戦い 郡内衆を率いて高坂弾正指揮下の妻女山攻撃隊に参加、この戦さのあと武田家「弓矢の御談合7人衆」に加えられる

・永禄8年(1565) 父弥三郎信有病死 信茂家督を継ぐ(信茂26歳) 

・永禄11年(1568)  駿河侵攻作戦 信茂富士川沿いに先方衆として参陣する

・永禄12年(1569) 北条氏照の甘里砦(八王子市)を陥落させる(信茂30歳)三増峠(神奈川県)にて郡内衆が北条氏照・氏邦軍と激戦し武田軍大勝

・元亀2年(1571) 信茂 冨士講の振興策として富士道者の増加を図り、関銭(通行税)を半減する

・元亀3年(1572) 西上作戦 信茂郡内衆3千人を率いて参戦

、三方ヶ原の戦い 三方ヶ原(中央先鋒の信茂は投石隊を駆使した巧みな采配で敵勢を打ち破る(信茂33歳)

・元亀4年(1573) 武田信玄公信州駒場にて死去(享年53歳)

・天正3年(1575)  長篠・設楽原の戦い 織田・徳川連合軍の木柵と鉄砲のまえに惨敗する。信茂は馬防柵を破り敵陣を撹乱したものの、銃撃に退けられ死者800人という武田軍最大の犠牲者を出しつつも、勝頼公を守りながら退却(信茂36歳)

・天正4年(1576) 武田信玄葬儀 恵林寺での葬礼で御剣を棒持する(信茂37歳)

・天正7年(1579)信茂は勝頼公の名代として越後へ出向し、菊姫・景勝の祝言の進行を取り仕切る

(信茂40歳)

・天正10年(1582) 3月11日 勝頼公(享年37歳)田野にて嫡男信勝などともに自刃

・天正10年(1582) 3月24日 信茂甲斐善光寺にて同行家族、重臣とものに自刃(享年43歳)