3月10日(金)~12日(日)に四国高知県仁淀川町の「武田勝頼土佐の会」による講演会「生天目(なばため)の陣」参加と史跡巡りのため車による弾丸ツアーを実施しました。

 

◆はじめに

●短歌 かにかくも遙けき地にて故郷の武人の歴史讃ふる士集ふ (作・小俣公司)

3月10日(金)~12日(日)に四国高知県仁淀川町の「武田勝頼土佐の会」
による講演会「生天目(なばため)の陣」参加と史跡巡りのため車による弾丸ツアーを実施しました。

メンバーは小山田信茂公顕彰会6名                            

林博之/威徳寺御住職  小俣公司/会長   武田和春/副会長          

溝口雄二/副会長   島崎晋一/副会長  折笠公徳/ブログ担当

車はプリウスα7人乗り、行きが11時間、帰りが12時間30分。

車内は荷物がいっぱいのため寿司詰め状態でした。

それでも皆様、3日間元気元気!

超長時間でしたが、車内は和気あいあいの笑いが絶えない楽しい二泊三日の紀行となりました。

◆小俣公司、武田和春、折笠公徳 箸

3月10日(金)

朝3時50分、会長宅を出発。

●短歌 折笠車予定通りの参陣へプリウスα(アルファ)音なく発進 (作・小俣公司)

皆さんやる気満々で元気いっぱい!

大月インターチェンジ→中央高速富士吉田線→東富士五湖道路で御殿場へ。

●短歌 西上す信玄公の心配は体調不安無事故祈りて (作・小俣公司)

更に新東名→新名神と進みます。

トイレ休憩をするも、ほとんどノンストップで名古屋を通過して三重県に
入って朝食。

汁がほとんどない伊勢うどんを推奨(伊勢神宮に行った時に食べた)。
食感と共に薄醤油味が最高!
最初、量は少なく感じたが食べていると湧いてくる感じ。

皆さん、十分満足していただいて淡路島に向けて出発。
ここで運転手島崎さんに交代。

●短歌 いかり肩力を抜いて声かける走行徐々に滑らかとなる (作・小俣公司)

新名神をひたすら明石へ。途中渋滞するも無事明石着。

そして神戸淡路鳴門自動車道へ左に旋回していよいよ明石海峡大橋。

高い高い橋柱がすごい迫力。近代的な吊り橋であり形が美しい。

あっという間に橋を通過して淡路島を縦断。

淡路島は大き過ぎて島というより内陸を走っている感じ。

瀬戸内海では最大面積の島で人口は離島の中では最も多い約13万人ですって。 しかも三市があるそうです。なんと大月市の6倍強です。

約50km約30分淡路島内陸部の景色を堪能しました。

そして、ついに大鳴戸橋を渡ります。
下を見るとなんとなく渦潮があります。

一気に渡り切ってついに四国に上陸!

ここで鳴戸海峡が見下ろせる公園で休憩。
絶景かな絶景!

●短歌 渦の道大鳴門橋渡るさに口遊みをり「青葉の笛」を (作・小俣公司)

後、一気に徳島を横断し、讃岐うどんを堪能。
やっぱ超美味。
のど越しが違いますね。

●短歌 終焉の平家公達偲ぶ道鳴門海峡繋ぐ大橋 (作・小俣公司)

気分も良くして、香川を横断し愛媛に入り一気に高知入り。

高知市で高速を降りて一般道を仁淀川町へ。

山が深くて大月市にはない感じの景色と家々のたたずまい田舎の雰囲気、でも素朴でなんとも温かいとてもよい感じ。何気に歴史を感じました。

そして15時仁淀川町役場着。
思えば遠くにきたもんだ!手足を一杯に伸ばし、青空に向かい思わず「ついたぞ」大声で叫びたかった。しかし、役場の駐車場、流石に遠慮です。

仁淀川町を流れる仁淀川はその美しさで有名です。

出典(仁淀ブルーについて) 
『高知県のほぼ中心を流れる仁淀川は、西日本最高峰の石鎚山に源を発し、 124kmに渡って土佐湾に流れ着く、四国3大河川の一つです。
 国土交通省が発表する「水質が最も良好な河川」に過去10年で8回も
 選ばれています。

 そのリゾート地の海辺を思わせるような透明度、エメラルドグリーンとも
 ターコイズブルーとも呼べるような「青」の美しさをネイチャーカメラマンの
 高橋宜之氏が「仁淀ブルー」と呼び始め、
 その名が知られていったと言われています。』

16時30分役場にて町長を表敬訪問。

「武田勝頼土佐の会」による講演会参加する愛媛大学教授、お二人の小説家、真田忍者の統領などなど役者がいっぱい。

層々たるメンバーの中に六人も入れていただきました。

明日の講演会がとても楽しみです。

そして、宿泊の山林林間楽校しまなの郷へ。
超山間の狭い道(車幅やっと一台)を約10km登坂走行。

山間の小学校を宿舎にしています。目の前を仁淀川の支流、中津川の流れを堪能出来ました。(大雨の時は怖いだろうな!!)

部屋に入り荷物の整理、烏の行水をしていよいよ待ちに待った夕食。

ご覧ください。

山の幸、川の幸、海の幸の御馳走。
そして中津川を挟んで目の前にある地ビール工場で作られたできたての地ビールとヤマメの骨酒。

全ての料理とお酒に素朴の中にも深い味わいがありました。

メンバー皆さんの一言
「弾丸ツアーだけど来て良かったね。」

上写真、右下の「田楽の味」何だか平家の落人部落で、その昔からの味=平家の公達が味わっていたものかと、事実確認せず何となく「おセンチ」な気分になってしまいました。忘れられない深い味わいでした。

●短歌 地ビールにて持てなしくるる土佐の友歴史で繋がる縁確かむ (作・小俣公司)

お世話していただいたお二人と記念撮影、ありがとうございます。

そして、部屋に戻り、2次会。

あっという間に一升空けてしまい・・・

明日が本番なのに・・・ まっいっか!

こうして、南国土佐紀行 車による弾丸ツアー1743kmの旅 1日目
は過ぎていきましたとさ。

3月11日(土)

まず最初に「武田勝頼土佐の会」が作成した武田勝頼物語のガイドブックから勝頼が仁淀川町に落ち延びてきた様子とその根拠について紹介します。

『「3+1」の系図について
 1番、大崎八幡宮代々の神官、岡林家に伝わる武田家系図
 2番、佐川町の武田家の末裔山崎氏、の分家に伝わる武田家系図
 3番、 同上 、嫡流に伝わる武田家系図
 十1、大崎八幡宮歴代神主、の岡林家に伝わる神主系図

この地区では、明治時代に行われた「廃仏毀釈」により、お寺がなく葬式は神式であるとのことでした。(岡林会長・談)

武田信玄の四男である甲斐武田家頭首「武田四郎勝頼亅(伊那四郎・諏訪四郎神勝頼ともいう)は、定説では天正10年(西暦1582年)3月11日山梨天目山で自害、武田家は滅亡したと言われています。

しかし、仁淀川町では、当時の土佐の武将・長宗我部家を頼って土佐に落延
び山田大法寺に入る、続いて池川村安居に入り、その後大崎村下大崎(寺村)、川井土居(現仁淀川町大崎)に出現、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんぱ)尉」と変名し、この地で26年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去され、土居屋敷(鴫王神社)に葬ると、また柿の木の元に葬ると記録(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記載)があります。

また、この仁淀川町周辺には一族の墓所を含めて多くの史跡や物証等が残されており、その他今に伝えられてきた「玄蕃おどり」や「玄蕃太鼓」などの地域芸能も残されています。』

『最後に推測でしかない事ですが、武田勝頼が此の地に落ち延び大崎玄蕃と名を変えて住み着いた話は、信憑性は高いと信じてやまないですが研究が待たれます。
この物語、作り話ではありません、昔の事は誰にも確証は出来ませんが、
ロマンが有っても良いのでは無いでしょうか。』

「武田勝頼土佐の会」は武田勝頼がこの地に落ち延び大崎玄蕃と名のって
活躍し、家族も存在していたことを熱く語っています。

午前中、勝頼公のお墓、大崎八幡宮、その他、関連する史跡を廻りました。

●短歌 新しく建立された墓石立ち何気におもふ歴史ロマンを (作・小俣公司)

そして、午後は、真田忍者の講演と演武、「武田勝頼土佐の会」会長の講演、そしてパネルデイスカッションが行われました。

●短歌 伊与久氏の立ちい振る舞い武器に見る現代忍者正に彼なり (作・小俣公司)

先ず、忍者の真田忍者研究会会長伊与久松凬氏の講演と演武は素晴らしいものがありました。

忍者の末裔ということもあって独特の雰囲気を持った方で魅力的です。

真田忍者研究会 錬誠館

「武田勝頼土佐の会」岡林会長は大崎八幡宮の前宮司24世であり、
役場の教育長を歴任し、系図によると勝頼公の末裔に当たります。

「武田勝頼土佐の会」

講演は熱く濃いものであり、大崎玄蕃は実在したと言い切っています。

●短歌 九百キロ弱離るとも武人伝称ふる二つの集ひ重なりし今 (作・小俣公司)

そして圧巻だったのがパネルデイスカッション。

愛媛大学教授、2人の歴史小説家、真田忍者、小山田信茂公顕彰会会長、
武田勝頼土佐の会会長という顔ぶれです。

特に印象的だったのは、明智光秀は本能寺の変の前に何回も四国を訪れていて、
最終的に本能寺の変は武田勝頼を四国に移動するためのものであったという説のお話がありました。

また、坂本龍馬は明智光秀の末裔だったという説もあります。

これにはびっくり!

今後、是非、関連資料を読みたいと思います。

それでは動画ダイジェスト版をどうぞ!

ほんと、歴史はロマンですね。

そして講演会の後、懇親会が行われ、土佐の鰹と日本酒をたくさんいただきました。

●短歌 とさ人の酒の交換猪口一気これはたまらん思わず勘弁 (作・小俣公司)

ここではいろいろな方との交流ができ、今後更にお付き合いを深めたいと思います。

3月12日(日)

朝、仁淀川町観光センター秋葉の宿(元小学校)に宿泊し、懇親会後の2次会ですっかり飲み過ぎて、6時30分起床。

窓を開けると山と川とダムの素晴らしい景色ときりっとした空気に心身復活。

二日酔なれど腹は大きく減っていて、朝からお茶碗大盛2杯をいただきました。何もかもおいしくいただけました。参加して良かった。

次の機会があったならば、再度参加したいと心から思いました。更に、忍者の里(群馬県?)へも行ってみたいと思うようになりました。

その後、荷作りも完了し、8時30分宿舎の前で記念撮影をして出発進行!

今日のルートは
・仁淀川町~今治   一般道(国道35号線?)
・今治~尾道      しまなみ海道(高速)
・尾道~神戸       山陽道(高速)
・神戸~名古屋     新名神(高速)
・名古屋~静岡     新東名(高速)
・静岡~甲府       中部縦貫道(高速)
・甲府~大月       中央道(高速)

●短歌 いよいよに甲斐国大月目指すのみ天気先行き降雨あるとか (作・小俣公司)

先ずは、しまなみ海道入口の愛媛県今治まで一般道を走ります。

四国固有の山深い地形で景観を十分楽しむことができました。

そして今治、サービスエリアで今治タオルやお菓子などお土産を買って
いよいよ、しまなみ海道60kmを走ります。

インタネットより
『瀬戸内海に浮かぶ島々を7つの橋で結んだ「瀬戸内しまなみ海道」。


 青い海、緑豊かな島、美しい橋が織り成す風景に息をのみ、
 島に暮らす人々との触れ合いに感動!
 瀬戸内海の多島美が一望できる絶景スポット、村上海賊ゆかりの地を巡る旅、季節の花々を感じる島など、豊かで贅沢な時間が過ごせます。』

当日は霧により霞んでいましたが、それでも海と島の橋が織り成す景色は最高でした。

今まで見たことのない別世界のようでした。

そしていよいよ尾道を通過して山陽道を神戸に向かって進みます。

途中、岡山の吉備サービスエリアで昼食。

ここで食べた黄ニララーメンは超最高でした。

麺は細麺で黄ニラやチャーシューとよく絡み、あっさりした醤油ベースの中華そばです。
岡山の高級食材をふんだんに使用した贅沢な一杯でした。

●短歌 ラーメンの味に託してこの三日満腹満足更に研究(作・小俣公司)

そして、運転を2人の方に交代してもらって静岡へ。

静岡からは新東名を左折して新しく開通した中部縦貫道で甲府へ。

途中、南部で山梨県に入ると歓声が上がりました。

甲府からの中央道は庭みたいなもんでしたが、最後の最後、安全運転で。

そしてそして20時55分、遂に帰って来ました。大月の会長宅に無事到着しました。

本日の走行距離帰路885km、12時間25分のひたすら走る旅でした。

お疲れさまでした、ご苦労様でした。

こうして、南国土佐紀行 車による弾丸ツアー1743kmの旅は無事終わりました。

3日間内容の濃い素晴らしい旅でした。

長距離走行、四国観光、武田勝頼土佐の会との交流.歴史探訪、高知料理とお酒堪能、
しまなみ海道初走行・・・・・。

そして、大月小山田信茂公顕彰会メンバー6名の結束が一段と強まった旅でありました。

(出発前、大嶽山那賀都神社にてお祓いをしていただきましての無事故・無違反の旅の完遂でした。良かったなー。)

 

◆林博之 箸

土佐紀行 感想 随行者「威徳寺・林博之」

四国高知、武田の里を訪ねて  

3月10日(金)

 朝3時半、島崎さんと溝口さんの車に便乗して、小俣公司会長宅へ集合。そこへ武田さんも合流して、折笠さんのプリウスa 7人乗りに乗り込み、4時出発、約800Km先の四国仁淀川町へのスタートです。まだ真っ暗い中、御殿場から新東名経由で愛知県へ。伊勢湾岸道路から京都、大阪、神戸から明石海峡大橋を経て淡路島へ。更に大鳴門橋を通って四国徳島へ入りました。そこから四国横断道で香川県を縦断、愛媛県を経て高知県へ。更に高知から国道33号線を北上して3時頃、ようやく仁淀川町役場駐車場へ到着しました。そこから更に国道33号線を仁淀川に沿って進み、そこは山間の大月の瀬戸の奥に似たような道路でした。名野川のバス停を右折して狭い道をくねくねと中津川渓谷に沿って登り、ようやく宿泊先の「山村自然楽校しもなの郷」に到着しました。そこはかつて小学校だった校舎を改築した、まだ学校の雰囲気の残る宿舎でした。そこで町長を表敬訪問するため着替えをして、再び仁淀川町役場へ向かいました。庁舎はまだ新しく、基本は鉄筋コンクリート造りですが、木材をふんだんに使ったとても感じの良い建物でした。職員の胸章を見たら、多分地元産の木材を加工して作られた木の胸章でした。何だか気持ちが温もりました。

 ここで翌日の講演会の講師の武田勝頼土佐の会会長岡林照壽氏が出迎えて下さり、更にコーディネーターで愛媛大学社会連携機構教授坂本世津夫氏、パネリストの横浜在住歴史作家の片岡昌一氏、女流作家日本ペンクラブ会員の中津攸子氏、真田忍者研究会会長伊与久松風氏、というそうそうたるメンバーが勢ぞろいして、庁舎二階の会議室で古味実町長との会見が行われました。

 真田忍者研究会会長の伊与久氏は意外に若く、伊与久という苗字は伊能とも通じ、話してみると山梨県の北杜市地区の住職達との交流もあり、不思議な出会いを感じました。

 表敬訪問を終え、再びしもなの郷へ戻り、風呂に入り、夕食となりました。乾杯のビールは川向うにあるクラフトビールの地ビールで、サツマイモ、麦、お茶等の醸造ビールでした。料理はイワナの塩焼きや山菜料理等、特に野菜寿司は絶品でした。

3月11日(土)

 二日目は午前中役場近くの武田家の遺跡を岡林会長が案内して下さり、役場裏の鳴玉神社は勝頼公と美津岐夫人を祀ったということで、大事に保存されてきたという祠です。更に対面する山の上にある大崎八幡宮を訪れました。ここは高いところにあるので、岡林さんの御子息で神主さんの運転で連れて行って下さいました。御子息の祝詞のあと懇談会となり、それぞれが意見を出しあい、話し合いはとても盛り上がりました。

 今回のメインイベントの講演とパネルディスカッションは、仁淀川町交流センターで行われ、小俣会長も小山田信茂公顕彰会の立場で堂々と発表されました。それぞれの発表はとても興味深く、心に残りました。

 その後土佐料理「きたはら」に移動して懇親会が行われ、昨年大月へ来てくださった方たちもあり、とても賑わいました。その中で一人の若者が「松本先生に逢いたかった」と、残念がっていました。最後にビンゴ大会があり、盛り上がった中で宴会を終えました。

 私達は宿舎の「仁淀川町観光センター秋葉の宿」へ行き、風呂に入り、酒を酌み交わし、夜遅くまで語り合いました。残念だったのは、この日行われたWBCのテレビ放送がなく、結果が分からなかったことです。

3月12日(日)

 最終日の12日は、四国横断道で今治市からしまなみ海道60Kmを通って福山、岡山、神戸、大阪を経て、全行程約900Km、新東名から中部横断道を通り、夜9時前に無事大月へ帰ることが出来ました。

 私にとっては初めての四国旅行でしたが、とても充実した想い出深い旅でした。計画を立て、運転もしてくださった折笠さん、途中で運転してくださった、島崎さん、溝口さん、車中の話題を盛り上げて和ませて頂いた武田さん、お疲れ様でした。小俣会長も大役を無事果たすことが出来、本当に良かったと思っています。ありがとうございました。

  

◆溝口雄二 箸

土佐紀行

溝口雄二

第一日目(10日)

 今年1月28日(土)新年会の折、小俣会長から高知県仁淀川町「武田勝頼土佐の会」よりご招待があり、小山田信茂公顕彰会として参加するかどうかの提案がありました。宴会で盛り上がっており一同賛成の意向で実現する運びとなりました。折笠様の綿密なスケジュールが作成され、日程は3月10日(金)~12日(日)の2泊3日に決定しました。

午前3時半:参加者6名全員集合無事に乗用車に乗り込み小俣会長宅出発する。途中雨模様でしたが、天候も回復し快適なドライブになりました。

兵庫県明石海峡大橋から淡路島経由で四国に到着した時は、皆一同感激したと同時に無事に来たことでホット一息。素晴らしい瀬戸内海の景色に感動し、各々記念撮影を撮るのに余念がありませんでした。日程通り仁淀川の宿泊所に到着し、急いで礼服に着換え仁淀川町役場に向かい町長に表敬訪問。小俣会長から仁淀川町長に小林大月市長からの親書を手渡す。宿泊所(しもなの郷)は廃校を再利用し、運営はすべて地元住民で行っていてフレンドリーで地元の食材を使用した料理が、とても美味しかったです。食後には、皆で野球観戦しながら楽しい時間を過ごしました。

第二日目(11日)

 午前9時に町役場に集合し、武田勝頼土佐の会長岡林照壽様のガイドで、勝頼伝説ゆかりの場所を案内して頂きました。戦国武将・武田信玄の四男勝頼は天正10年(1582年)徳川・織田連合軍に田野で敗れ、37歳の若さで自害したはず。ところが、土佐の武将・香宗我部家を頼って落ち延び、「大崎玄蕃」と改名して64歳で亡くなり、地元の大崎の開祖となったという伝説の地です。 

墓所などゆかりの史跡が点在していた。また、岡林会長は代々の宮司として守ってきた「大崎八幡宮」(川井八幡宮)は勝頼の建立として、2009年から「秋の陣武田勝頼公祭り」を開催し、町興しに取り組んでいる。現在、会長の息子さんも宮司となり、親子で熱心に活躍している姿に接して、感銘したと同時に物凄いエネルギーを感じました

 仁淀川町交流センター3階大会議室にて午後1時半より2時半時まで、「生天目の陣・歴史講演会」が開催された。テーマ~野中兼山と谷泰山の真実の罪~  講師 岡林照壽氏

 【パネルディスカッション】 2時間45分~4時

テーマ: ~武田勝頼土佐生存説と町興しについて~

コーディネーター:坂本世津夫 氏

(愛媛大学社会連携推進機構教授・地域連携コーディネータ)

パネリスト:片岡昌一 氏(仁淀川町生まれ 最後の平家の著者・勝頼の影武者説を取り、なぜ土佐に来たかとの自説を問いかけている)

パネリスト:伊予久松 氏 (真田忍者研究会会長・長野県諏訪市在住 武道・太極拳など)

パネリスト:中津攸子氏(女流作家千葉県名誉県民・日本ペンクラブ・武田家の女達など小説多数発行)

パネリスト:小俣公司 氏(小山田信茂公顕彰会会長 山梨県大月市在住 信茂公の武田勝頼裏切りの通説を見直し、濡れ衣を晴らして信茂公の真実の姿を知らしめ、郡内・大月市の地域興しに活躍中)

パネリスト:岡林照壽氏(武田勝頼土佐の会会長 高知県仁淀川町在住 町興しのために街歩きガイドを努めて、武田家系図より独自の歴史研究家)

<感想・意見>

1 伊賀忍者・甲賀忍者以外に真田忍者の存在を知り、実演を交えた伊予久会長の講演は、とても分かり易く興味をそそり楽しかった。

2 中津先生の話しで、武田勝頼(大崎玄蕃)の側室 美津岐夫人(三枝夫人)は三枝三郎晴友の娘で、土佐に落ち延びていて、実は、北条氏康の娘(北条夫人)と同一人物であることを仮説として小説にしたいとの事。「武田勝頼土佐の会」にとっては心強い話しかと思いました。

【理由】

武田家系図よると、勝頼の先妻は織田信長の養女(遠山勘太郎氏の娘)で、信勝の母親であり元亀2年(1571年)に逝去し、その後に、北条氏康の娘(北条夫人)が嫁ぐのは、天正5年(1577年)1月22日です。この間6年近くあります。3男正晴は天正2年(1574年)に甲府で生まれている。

3 地元の町興しの一環として、人々の絆としてその地域の歴史・文化・芸能を大切に受継いで行くことの大切さをパネリストの話を聞きながら感じ、大変勉強になりました。お疲れ様でした。                                   

夕方からの懇親会(土佐料理・きたはら)では、坂本コーディネーター・各パネリストはじめ勝頼土佐の会の皆様と飲食しながら、楽しく心からの交流を深めることができ、感謝申し上げると共に良い思い出になりました。

宿泊所に戻り、ゆっくり休んで6人で今日一日の話やこれからの小山田信茂公顕彰会のあり方・方向性について冗談を言いながら楽しく最後の夜を過ごしました。

第三日目(12日)最終日

朝から天気も景色も良く、外出すると清々しい気持ちになりました。全員で記念写真を撮り、午前8時20分に出発する。往路は約800キロでしたが、帰路は約900キロの予定でまず、愛媛県松山に向けて進行。今治北から有名な「しまなみ海道」を走りました。穏やかで美しい瀬戸内海と島々を巡り途中下車してショッピングを楽しみました。広島県因島・尾道を経由して一路、山陽自動車道をひたすら走り続けます。静岡県に入ると、やっと山梨県に近づいたなと思いました。中部横断自動車道を経由して双葉パーキングエリアに到着した時はホット一息、中央道に入り約12時間半かかり、無事に小俣会長宅に戻ることができました。その間、運転していただいた折笠様・島崎様には本当にありがとうございました。そしてお疲れ様でした。

2泊3日の「土佐の旅」、色々な情報や人々のふれあいがありました。小俣会長・林先生・武田副会長・島崎副会長・折笠プロジェクトリーダー皆様と寝食を共にした時間は、とても有意義で、楽しく心に残るものとなりました。ありがとうございました。この貴重な体験をこれからの活動に活かしていきたいと思います。

  

◆島崎晋一 箸

武田勝頼土佐の会の講演会参加

島崎晋一

令和4年4月信玄公生誕500年祭に、土佐の会のメンバーが山梨に来られ、小山田信茂顕彰会の役員と友好を深めた。その返礼として今回「武田勝頼土佐の会」の講演会に参加するためにお伺いした。

3月10日(金)

3月9日深夜(10日早朝)、小山田信茂公顕彰会6名が集合して春雷の中、車を飛ばし大月中央道河口湖線⇒新東名高速⇒新名神⇒神戸淡路鳴門自動車道⇒四国横断自動車道⇒高知県仁淀川町と車で向った。学校の旅行や仕事などで関西・中国地方には行った経験はあるが、四国に渡ったのは始めてです。

徳島から見た瀬戸内海の大鳴門橋は潮風もあって爽快さを感じた。

夕方仁淀川町では翌日の講演会(生田目の陣)パネリストと一緒に町長に表敬訪問した。皆さん歴史が好きで、人が会えば歴史の話になり、誰か止めないとなかなか会話が終わらない。大月市長の親書をお渡しし一日目は終了した。

3月11日(土)

二日目は岡林会長(市の承認ガイド、500円/人)の案内で午前中史跡巡り、午後は生天目の陣、懇親会と続いた。

仁淀川町は大月市よりへんぴで、国道33号線を外れると車がすれ違うのが大変な道が多く、山の中腹に家が多く点在する。江戸初期山ノ内家が土佐に入り、元長宗我部の下士が山中に移ったためと思われる。そんな環境ですが町興しの熱量がすごく感じられました。

私たちが宿泊した宿は一泊目・二泊目共に廃校を利用した宿舎で、町民の方が運用されていて1人が専従で、他は地域住民の当番制でした。夕食は地域の食材を使ったとても美味しい食事で、宿舎前の地ビールも飲めました。

「生天目の陣」は歴史講演会ですが、町興しを主眼としているようでした。

コーディネータの坂本愛媛大学教授(高知出身、下士ですが逃げずに住み続けた)。以下パネリスト:片岡様郷土歴史小説家。中津先生(横浜在住の小説家88歳)疎開したこともあり山梨に詳しく、歴史の内容はともかくとして町興しが出来れば良いとの発言でした。伊与久様(真田忍者末裔)演武実演、小俣会長(小山田信茂公顕彰会)、岡林会長(武田勝頼土佐の会)。

講演内容としては、天目山で亡くなった武田勝頼親子は影武者で、真田経由で千葉から船で土佐に逃げた。もともと土佐は、神社など諏訪との繋がりあり、言葉などで共通する点がるとのこと。また源氏繋がりで明智光秀が本能寺の変を起こし、武田水軍が勝頼を助けたとのストーリーでした。さらに、お墓など遺跡は新規に墓石が設けられて町興しに力が入れられている事が分かります。

今回の四国行きでは、歴史・町興しについて見聞を広めることとしてはとても良い機会になりました。

島崎副会長 レポート(A4版40ページ)

全40ページ PDF

以上