会長 小俣公司より発信します。

四百年以上も前の古文書成るものを、一級資料、二級資料などと
言って、最近の新説は、それら資料の読み方が出来ていないとか、
いるとかという視点で考えるのではなく、
大事なことはその古典的な資料の信憑性が本当にあるのかないのか、
また、それをまとめて世に出した人が、いかなる思想信条の人であったのか
(平たく言えば、文章対象者に好感を抱いていたか、そうでないか)
このような事にまで触れて考え方を構築する必要性があるのではないかと
思います。

私などは、三大新聞、または地方新聞でも同じ内容で書かれた記事にさえ違い
(執筆者の考えの違い)を見ること大であリます。

この視点で考えると、歴史資料と言われているものでさえ、書かれていることに
ついて疑念を抱くものであリますが、読者諸氏は、いかがなものでありましょうか。

最近、ふとしたことがきっかけとなり、大変な資料の発見に至りました。

前段で延べている事の裏付けとなり得るものと、確信する文章です。
以下紹介します。

何とそれは、「鉄道唱歌/中央線鉄道唱歌(春江堂)作者・越嶽仙人、1911年」
1番から28番までの歌詞で、6番目に以下の歌詞があります。

*甲斐(かい)絹(き)の産地(さんち)で知(し)られたる 郡内(ぐんない)地方(ちほう)は
此(この)あたり 山の中なる大月に水力電氣(すいりょくでんき)の事業(じぎょう)あり

次に「鉄道唱歌/中央線鉄道唱歌(好文堂)作者・福山寿久・福井直秋、1911年」

1番から70番までの歌詞があります。

その中の14番目の歌詞
*大月驛(おおつきえき)に下(お)り立(た)ちて南(みなみ)へ馬車(ばしゃ)の
便(べん)を借(か)り富士(ふじ)の高嶺(たかね)の雲(くも)分(わ)けて
千(せん)古(こ)の雪(ゆき)を踏(ふ)みや見(み)む

問題の15番目の歌詞です。
*川(かわ)を隔(へだ)てて聳(そび)ゆるは岩(いわ)殿山(どのさん)の
古城蹟(こじょうせき)主君(しゅくん)に叛(そむ)きし奸黨(かんとう)の
骨(ほね)また朽(く)ちて風(かぜ)寒(さむ)し

以上、二つの唱歌の捉え方です。

前段の方は、歴史に触れず単に当時の大月の様子を記述しているだけです。

後段の方は、14番目の歌詞だけでも十分であるにも拘わらず、
どうしてわざわざ15番目の歌詞を挿入しているのでしょうか。

浅はかな私見ですが、前段の方は歴史に触れずに当時(1911年)の
大月駅だけを記しただけ、後段の方は、敢えて小山田公を、
[主君(しゅくん)に叛(そむ)きし奸黨(かんとう)の骨(ほね)また朽(く)ちて
風(かぜ)寒(さむ)し」と言う様に揶揄して表現しているように感じます。

同じ年に同じような題で表した鉄道唱歌ですが、作詞した方の思いが、
全く別の所にある様にとしか理解出来ません。

この一事を見ても、前段9行の部分が成り立つのではないかと、
意を強くしました。

天正10年3月10日前後天目山で起きた勝頼公一行の悲劇は、
それぞれの捉え方次第で、どうにでも解釈できる、
お互いがお互いの解釈を認め合う事の出来る日が早く訪れることを
心から願っている。

こんな心境に最近なっております。

フランスの哲学者ニーチェの言葉を借りて、
「歴史に事実など無い、あるのは解釈の違いだけである。」
を添えさせていただきます。