会長 小俣公司から発信します。

雨天、曇天、風雪の悪天候以外、ほぼ1年を通して
「北側に岩殿山の大岸壁、西に春夏秋冬の霊峰富士ヶ嶺」を、
目にすることの幸せを感じる齢になったようです。

自宅から岩殿山の大岸壁を望む

「馬齢を重ねた」そんな心境のこの頃です。

社会一般では、何かときな臭い感じの世界情勢(ウクライナ戦を
勿論含んで、何かと賑やかです。)、今までになかったとコロナ禍
(ウイルスの変異株?世界中の子ども達を脅かす肝炎)、
この大きな波に飲み込まれず、自分の生活を守ることの大変さ。

中世末期の戦国時代末期の甲斐国郡内小山田領内の民衆は、
いかな思いで毎日を生活していたのであろうか。
大変だったと思います。

「信茂と勝頼」DVDの最終章の後半部分、
「お館様、勝頼公を郡内に入れないで下さい。」
一般民衆の悲痛な叫びだと解釈しております。

このことは、一つ全国の一般大衆の叫びではなかったかと思いを
致します。

「下剋上」の世の中が、少しずつ収まりはじめた、天正10年(1582年)3月、
天下の武田家が、事もあろうに「甲州征伐」という類のない言葉で、
「朝敵」扱いされてそれぞれの城、砦が、織田徳川連合軍に下っていく様を、
泉下の信玄公はもとより多くの知将、勇将、猛将でならした武田軍団の
方々は、いかような思いで見ておられたのでしょうか。

小山田一族でも当然のこととして歯ぎしりし、地団駄踏んでいたのでは
ないのでしょうか。

この状況(武田家滅亡・小山田家滅亡)を、一人「小山田信茂」に全責任を
被せるような通説を、約450年もの間、誰も違和感を持たなかったのでしょうか。

不思議としか言い様がありません。

出典 旺文社日本史事典 三訂版 
『江戸開府以来、江戸時代,士農工商の下位に置かれた賤民階級で穢多は
 中世以来の隷属民や激しい社会変動で没落した人びとからなり,幕藩体制
 維持のため、封建的身分制の最下層に位置づけられた。

 非人道的に身分・職業・住居を固定されて,皮革・死刑執行・斃馬牛の処理に
 あたらされた。
 非人は乞食・犯罪・心中未遂などの転落者で,遊芸・物貰いに従事する人びとで
 あるが,足洗い(旧身分復帰)が認められた。』

このような身分制度の考えの基「信茂公裏切り説」が、如何にして形作られたのか。

三角形の頂点に将軍様以下、親藩・譜代・外様大名等の制度を設け、これに逆らう物は
何人たりと許されない(武家諸法度=幕末まで何度か改訂あり)状況を作り、
この中での価値観が、見事に融合合体して「信茂公裏切り説」が正当化されたままで、
現在まで来てしまったのです。

小山田信茂公顕彰会は、なんとか今、この状況を変えたいと願いながらの研究を
進めています。

論集(4)も6月迄には何とか発行の運びになりました。

お知らせと共に、皆様のお力をなお一層いただきながら、長い間の歴史の闇に
光を当てて、真実の姿を求めたいと念願しております。