副会長の島崎晋一から発信致します。

先ず、本題に入る前に新編・小山田信茂論集(4)のお知らせです。

令和4年5月8日に編集委員が集まり編集会議をしました。
今回の論中は2つの論文で構成されいます。
1つは松本主宰(小山田顕彰会)がご先祖の松本主計直光氏となり、
原文表記部は多少難しいので、中高生向けにお話するかたちで
記載しています。
発行日は未定ですが近く製本されて発行になります。

  

それでは、本題の「私と岩殿山」についてお話をさせていただきます。

私は地元の小・中学校を卒業して65歳。
小山田氏と岩殿山について振り返ってみます。

私は葛野小学校に入学して七保小学校(葛野小学校・浅川小学校・
奈良子分校統合)を卒業しました。

七保小学校は岩殿山の東に流れる葛野川の東側に有ります。

現在は瀬戸小学校・上和田小学校と統合して新制七保小学校と
なっております。

私の頃の小学校1年生の春の遠足は岩殿山中腹の円山公園が
定番でした。

何歳か忘れましたが、谷村の勝山城への遠足にも行きました。

担任の先生のお話では、勝山城に住んでいて戦時に岩殿で戦うとの
説明でした。

その他の知識は夏の盆踊りでの武田節と岩殿城歌だけです。

歴史への興味は、祖父に頂いた坂本龍馬を読む事で始まり、
司馬遼太郎の一連の作品の他では新田次郎の武田三代なども
読みました。

小中学で地元の歴史をもう少し教えても良いのではないでしょうか。

私が岩殿山山頂に登ったのは地元の住人ですが2回だけです。

1回目は、小学校3年生(55年前)で4月の始業式後か土曜日で、
午後3人で50円のお小遣いでお菓子を買って桜のお花見に行きました。
チューブのチョコレートを買った記憶があります。
畑倉の忠霊塔の石段から入り山頂へ向かい丸山側に下りました。
畑倉側は比較的なだらかで丸山側は急な坂道と大きな岩の間を
通った記憶があります。
他に記憶にあるのは頂上で富士山の眺めが良かったことと、
下りる時に風が強かったことです。

2回目は、大月市に戻ってきた40歳ごろ家族で丸山側から
登り・下りました。
結構登りやすく手が入った道になっていた記憶があります。
30年ぶりで変わったことは、4月にさくら祭りをしていること、
8月かがり火市民火祭りで花火を上げることです。
また、岩殿山ふれあいの館が建てられ、建設当初はプラネタリウムが
設置されていましたが、現在は白籏史朗氏の写真が展示されています。
*現在丸山公園からの登山(強瀬ルート)は鏡岩の自然崩落により
通行止めとなっています。