信玄公生誕500年記念事業
小山田信茂映像コンテンツ「信茂と勝頼」の公開について
武田信玄公生艇500年を記念して、信玄公生誕500年記念事業実行委員会が制作した
歴史ドラマ「信茂と勝頼」を、令和4年3月16日(水)から山梨チャンネルで公開されました。
【小山田信茂公顕彰会会長 小俣公司 コメント】
1582年天正十年3月10日、武田勝頼死す。嘘、本当ですか。諏訪四郎勝頼ではないのですか。こんな一面も見えませんか。
しかし、勝頼は嫡男信勝が当主になるまでの代理というのは、甲陽軍艦にのみ記されていることを根拠にしているのですよね。
甲陽軍艦は、歴史家が信頼できる史料と認めるものではないので、歴史家の立場からは「勝頼は信勝の陣代説」なるものは『存在しない』ことになります。
このことを基本に考えると甲陽軍鑑にて「信茂公裏切り説」を唱えておられる方々に、440年前の笹子峠の様子や出来事を、もう一度見直し考え直していただきたいものです。武田家が小山田家が滅亡したとされている唯一の歴史書(甲陽軍鑑)と思われておられる方々に問いたいです。
信茂公は、本当に裏切ったのですか、最後まで付き添い織田信忠陣中に出かけ郡内領主として(郡内領民、領地は織田徳川連合軍に一切踏み荒らされておりません)の責任を取った、大忠臣ではなかったのですかと?。
【歴史ドラマ紹介】
第1章「その男 小山田信茂」
甲府のだるま職人、小宮山は、娘が連れてきた恋人に対し武田家滅亡の歴史を語り始める。 時は戦国時代、1565年の甲斐国郡内某所。臣下からも慕われ、才気あふれる武田の重臣、小山田信茂の姿があった。
第2章「憎まれ役」
武田信玄は、傍若無人な振る舞いをする織田信長を討つ決断を下す。 信長の養女を妻としている勝頼の真意を確かめるため、信茂は憎まれ役を演じる。三方ヶ原で織田・徳川連合軍を撃破した信玄だが、その身体は病に侵されていた。
第3章 「信玄の遺言」
京都・室町御所では、2人の忍びが信玄の生死について将軍足利義昭を惑わせる。 武田家は、信玄の死に大きく揺れ動いていた。勝頼は、偉大な父の後を継ぎ、武田家を背負う重責に苦悩する。
第4章「武田家の命運」
長篠の戦いで大敗を喫した武田軍。設楽原では、老婆が敗軍の武具を売りさばいていた。 勝頼は北条氏政の妹を正室に迎えるが、上杉家への対応を機に武田と北条の同盟は破綻してしまう。家臣の進言も空しく、武田家は破滅への道を踏み出していく。
最終章「二人の想い」
窮地に追い込まれた勝頼は、北条夫人らとともに信茂が待つ岩殿城へ向かう。笹子峠では、信茂が鉄砲を構えて待っていた。信茂と勝頼、二人の想いは・・・
小山田信茂公の無念を晴らすために本ブログ作成に関われて光栄でございます。折笠
DVD「信茂と勝頼」が、本ブログ内でも、一時期視聴することが出来ませんでした。しかし、今朝(5月3日)、それでもと思い、小山田信茂ブログの中で「ビデオ(信茂と勝頼)」を開いてみました。何と、以前の画面が音響が、視聴できる。飛び上がらんばかりに驚き嬉しくなりました。皆様、是非とも多くの方に視聴いただく事が出来ますようにPRして下さい。そして、信茂公の本来の姿を考えて戴けるきっかけとなりますことを、心より願っております。
関係の皆様方に、深謝、言葉にならないほどのお礼を申し上げます。ありがとうございました。ここでしか、視聴できないかと?思います。ありがとうございました。