小山田信茂顕彰会 小俣会長殿

4月9日の日はお世話になりました。

10日の深夜に帰宅して、昨日は荷物の整理やで一日が終わりました。

滞在中は貴会との交流、有意義な一時でありました。情報の共有は今後共続けたいと思います。

会食が盛り上がりすぎて申し訳ありませんでした。コロナ渦の中なので心配はしております。

楽しい時を頂き今後の糧としたいと思います。今後ともお付き合いを宜しくお願い致します。

  

私の私見として以下に述べさせて頂きます。

・勝頼をと言うよりは土佐まで同行した信勝、又は甲斐武田家の血統を残したいと家臣一同考えたと思います。一つ

・当初真田の郷、岩櫃城に逃げると決定した、此が真実で、岩殿城に変更したのはおとり作戦と私は思っております。二つ

・此からは、土屋氏や小山田氏達重臣達だけで、自分たちが犠牲になり戦を終結させ、武田の血統を守る為に影武者を造り演出したと思います。三つ

・女子供達が逃げられたのに信勝は何故逃げなかったのか、味方おも欺いた行動だったと思います。終結の場所「天目山」が必要だったと思います。四つ

故に、武田は鎌倉時代に土佐に地頭として武田信義の孫、一条次郎忠頼の子「秋通」を頼朝に因って派遣され後の香宗我部氏(長宗我部氏の弟)となっており、土佐の武田家系図には「香宗を頼る」と書かれて居ます。早い段階で土佐に逃れ長宗我部氏と共に再興を考えております。

長宗我部氏は関ヶ原で西軍に組みして改易と成り夢は潰えた思います。以後は歴史の影でひっそりと今日まで潜んでいたと思います。

*以上から考えても小山田信茂は逆臣(裏切り者)ではありません、むしろ(替え玉作戦)と、武田家(勝頼落人伝説)の真実が明らかになれば、其れは証明できると信じております。

以上のストーリーで映像が作られる時を切望しております。

松本氏にも宜しくお伝え下さい。

何はともあれ、友情の証が今後を占う事を期待しましてお礼とご挨拶と致します。

                           武田勝頼土佐の会 会長 岡林照壽

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