顕彰会副会長 折笠公徳より発信します。
5月27日(土)、小俣会長、溝口副会長、島崎副会長、折笠の4名で松姫様が
甲府から八王子に逃避した大月地区ルートを検証ウォーキングしました。
甲州街道(郡内)
赤:松姫ルート(古甲州街道1)
黒:小仏峠ルート(小山田信茂開削:古甲州街道2)
青:江戸期の甲州街道
A威徳寺8時30分出発、右の山道を通り、浅川バス折返し地点15時30着、約10km。
途中、山道で数回道に迷い(道が無くなる)、道なき所を必死に歩いて参りました。
ここ大月市には天正10(1582)年3月23日山梨市向嶽寺から、
武田信玄の息女松姫一行が織田・徳川連合軍による甲州征伐の際、
現在の八王子市立上恩方第二小学校校庭に旧跡として残されている
当時、金照庵という草庵たどり着いたといわれている道筋が、
「信松院松姫逃避ルート」に掲載されています。
この避難経路については諸説あるが一行には当時高遠城主であった
仁科盛信の娘(督姫)、腹違いの兄勝頼の娘(貞姫)、人質である
小山田信茂の娘、又は養女(香具姫、又は香貴姫?)、
更に盛信の子◎◎◎◎を伴い盛信の部下十数名が護衛として
先述した向嶽寺まで、高遠城から向嶽寺まで到着しました。
その後、武田家の菩提寺である、蕓法寺から大菩薩峠
(2000ネートルに近い尾根道が続く)を越えて現在の松姫峠、
小菅村までの尾根筋を通るのは、時季的に不可能ではと思われ、
伝承が残る秩父大道の裏街道的な役割を果たしていた
古甲州道を避難したと考えるのが妥当であると思われます。
そこで、大月内を通ったと思われる道を検証ウォーキングしました。
松姫一行の通った古甲州道は、大月市の扇山、百蔵山の北側の
道筋が裏街道と思われます。
途中厳しい山道もありましたが、大菩薩峠に比べれば何んとか
女性でも歩ける道かと思われます。
戦国時代に武田信玄の息女松姫一行が歩いた道を今の時代に
同じように歩いていることに歴史のロマンを強く感じました。
やはり、何事も現地現物が大事です。
まだまだ、歴史的に謎が多いですが、これから先も一つ一つ検証
していきたいと思います。
顕彰会副会長 島崎 晋一さんの考察とコメントです。
「葛野-浅川道」検索と思い出
松姫様はどの道を通って東下したか? 小山田信茂公顕彰会では、従来云われている「大菩薩峠-松姫峠-小菅-上野原-金照庵(八王子)」このルートは下記の理由にて通っていないと考えている。
- 季節的に越えることは困難であったろう(標高2000mの峠の旧暦3月(現4月上旬)では、積雪がある)。*5月連休で北八ヶ岳1,000mを越えると積雪があった。
- 来ている衣服では、体調が持たないであろう(松姫様は当時18歳程から20歳前までの成人女性・しかし、共につれて逃げた三人の幼子は三歳から五歳程)
顕彰会では「笹子峠-東光寺(岩殿)-葛野-浅川―棚頭(上野原)-金照庵(八王子)」のルートを通ったと思い、今回「葛野-浅川道」を調査・探索してみた。結果は下記の理由にてこの道を通ったと思いました。
- 浅川と葛野は寛文九年(1669)の検地前は同村で、今回の道は荒れていたが昭和の頃の道を思うと昔は主要な道だったと思われる。
- 葛野川のどこを渡るか? 葛野集落と畑倉・岩殿は当然昔から行き来があったはずなので、丸太の簡易橋があって容易に渡れたのではないか。
- 葛野地区に円通寺所有の土地があった。
- 昭和のころ橋は無かったが丸太の簡易橋が有り、大水で流れたが、誰かが又架けていた。
- 今回歩いてみて、葛野の浅川側、小泉地区の道沿いに石垣や石仏が有り、現県道からの登り口に江戸時代とおもわれが、出羽三山塔が置かれている。これは古くからの主要道であったためと思われる。
- 浅川不動尊は、小山田越中守信有が大月市梁川の彦田・矢壺坂で小田原北条氏と戦い三百の兵を失い敗北した。この将兵の慰霊のためにこの像が作像された。よって戦国時代には浅川道は主要道であったと思われます。
- 甲州街道は北条により危険、八王子へのその他の道で一番容易な道と思われる。
3.葛野-浅川道 五十数年前の思い出
中学生(現66歳)のころ通っていた道ですが随分変っていました。
当時も頻繁に使われている道では無かったのです。
聞いた話では戦後の時期に、葛葉学園の畑が途中にあって、生徒が荷車を使っていたとの事です。
中学時代は浅川の田んぼにスケートをするのに何度か通りました。
冬なので日没になるのが早く、真っ暗の中、月明かりで此の道を通って帰宅したこともあります。
中学時代に最後に通ったのは、1月15日(成人の日の休日)に朝からスケートに浅川に行ったところ学校から呼び出され、此の道を通って慌てて七保一中に行ったところ、鈴木美良先生に成人式の余興に居合いの形をするように云われ、急遽したことを覚えています。
- 当時は各中学校単位で成人式をしていたようです。
学園祭に披露するために練習したので、3ヶ月過ぎていたので演技はボロボロでした。
4.葛野-浅川道 二十数年前の思い出
今から20数年前に、奈良七保公民館長が小学生を連れて地元を歩く事を3コース実施して
2回目のコースに七保小学校―小泉(葛野)―落合(浅川)―天神平(駒宮砦跡)でした。
- 前記の途中の畑の話はこの時に聞いた話です。
この時は、沢は崩れて通りにくかったですが、道は猪により崩され細っていましたが通れました。今回5月21日の探索では、道自体の判別が難しくなっていた箇所が多かったです。
以上
奇しくも当方のブログと松姫テーマが一致しました。
嬉しいです。
こちらからも
「小山田信茂公顕彰会はやってるぞー!」と、小山田信茂ブログを紹介します!
夢酔先生、ありがとうございます。
親鸞聖人様が歩いた路を、天正10年時代、小山田信茂公配下の方々が知らないわけがない、松姫様が通行することについては、信茂公が、北条方に連絡している。(松田憲実様と連絡を取り合っていたのではないか)従って、一番安全な東下行ルートであったかと推測できます。上野原の加藤丹後守様方は、箱根ヶ崎にて攻撃され、全滅させられている。この事だけでも、松姫様方はどなたかの援助で、金照庵まで行けたと考えております。勿論、信茂公ですが。
今回のルート踏査において、明らかに往時の道とは様子が一変しておりますが、この道を使っていたと考えられると思います。次回は、浅川峠から上野原の棚頭まで踏査してみたいと強く思いました。今後ともどうぞよろしくお願い致します。
顕彰会の皆様、こんにちは、会員の中村です。松姫さま逃避ルート踏破、楽しく読ませて頂きました。またお疲れ様でした。大月と上野原を繋ぐ浅川峠は古くから往来のあった道なんですね。以前地元図書館で奥多摩の山や川に関する郷土史の本を読みました。それによると、浅川峠は市坂峠ともいわれ、浅川側から上野原の市へ通う道であり、文化交流路でありましたと。さらに王勢籠権現信仰の道と、大月観光案内所で買った本からもわかりました。古来より地域の重要でメジャーな道だったのですね。松姫さま一行も当然この一択です!