12月10日午後、大月市民会館視聴覚室にて「小山田信茂公顕彰会 第六回講演会」
が開催されました。

一年ぶり開催で一般の方や遠路からの参加者が多く、お話しと信玄公生誕500年記念で
制作した映像「信茂と勝頼」も見ていただき盛会でした。

島崎晋一副会長の報告書

1.演題

岩殿大岸壁の松風を聴き真実を視る
信茂公の先を見る眼と、勝頼公と涙の決別・決断

2.緒項目

日時 :令和4年12月10日(土)13:30~15:00

会場 :大月市民会館4F 視聴覚室

次第 進行:武田副会長(事務局長)

(1)開会のことば 溝口副会長

(2)挨拶     小宮文男様 会員代表

(3)講演     小俣会長

(4)映写     担当:折笠様 「信茂と勝頼」4,5回

(5)質疑応答

(6)閉会のことば 島崎副会長

3.内容

 進行 聴講者来場の御礼と、武田副会長の自己紹介、スケジュールの説明

(1)開会のことば 溝口副会長

(2)挨拶 小宮文男様 会員代表

コロナ禍及び年末師走の大変御忙しいなか、ご参加頂きまして誠に有り難う御座います。
小山田逆臣説が研究者の検証により覆されてきました。皆さんご存知と思います。先日長崎知事は、小山田逆臣説が地域間の感情の違いの争因になっている。から始まり小山田茂信公に関する研究結果は甲陽軍鑑と対峙し合理的であるとの公式見解をだしたと話されました。しかしながら、一部歴史学者など過去に出た甲陽軍鑑を通用しています。このことから講演会などにご参加していただき、何か一つでも持ち帰り、家族や友人知人に広めてくだされば幸いです。

(3)講演 小俣会長

(3-1)11月広報の間違いとお詫び

はじめに、11月広報でのこの講演会時間記載の間違いについて、12月号にて訂正したことについての経過説明とお詫びをしました。

(3-2)演題の説明 *7頁続き有り

第四回小山田信茂慰霊祭、賑岡町畑倉井山に御座います威徳寺にて信茂公ならびに松姫様の合同慰霊供養祭を執り行うことができました。切掛は論集1・2・3・4を買ってくださっている方は眼にするかと思いますが、そのなかに、大久保長安研究会(八王子を中心とする研究会)の会長鈴木泰様の仲介で信松院のご住職西村様とお話をさせて頂く事が出来ました。小山田信茂慰霊祭についてお話しすると、コラボしませんかとなりました。*資料2Pの1~4行読み上げ

敢えて処刑(使いたくない表現)されに行った信茂公の思いが、今キチンと歴史の中に息づいています。どう言うことかと言いますと武田家は滅亡したわけでは無い。武田家はキチット復興しております。また小山田家も復興しております。歴史の流れの中で信茂公の思い、勝頼公の思いがキチット花開いている。それは松姫様の話は、悲しい話しと受け取られがちですが、決してそうではないとの立場で話を進めていきます。

☆説明:配布資料については家に帰ってのんびりお読み下さい。

  資料 全ページ

  以下 報告書続き

  

顕彰会会員 藤本実さんレポート『小山田信茂公顕彰会が大成功』

1.はじめに
小山田信茂公顕彰会にとって、2022 年は大きな飛躍の年となりました。
逆臣の定説をくつがえす熱意と研究が認められ、山梨県制作の
「信茂と勝頼」ショートムービーとなりました。

2.定説
信茂の裏切りで笹子峠が封鎖され、勝頼は仕方なく天目山麓に
逃げ討ち死にし、武田氏は滅亡した。

3.顕彰会 1
笹子峠は封鎖されていなかった。
信茂は婦女子家臣を北条方(現在の八王子市)へ無事に逃がした。
その後信茂の孫が武田信正と結婚し、武田信興が生まれたが、
この人こそ武田家再興の人である。

4.顕彰会 2
「裏切り」は勝頼が信茂に命じたことだと考えればつじつまが合うのだが、
2007 年 12 月、上吉田富士山御師小澤志摩所蔵の「武田勝頼滅亡記」
と題された「理慶尼記朱校本」を顕彰会主宰・松本憲和が発見し、定説を
覆す論拠を得た。

5.県制作『信茂と勝頼』
「儂(わし)を撃て。そして首を信長に差し出せ。
それが領地領民を守ることになる」「憎まれ役をすまぬ」と勝頼は信茂に命じた。

6.まとめ
講演会では、長崎知事が大月市内の集会で、「信茂と勝頼」にふれ、
「勝頼の命令だったと考えるのが合理的」と述べたと紹介されましたが、
こうしたことを機会に国中と郡内の感情的なしこりが消え去ることを期待します。
そして大月市の地域おこしも。