会長 小俣公司 様

送られてきた講演会の資料と、講演会の添付資料を読ませて頂きました。

内容が多岐に渡り観衆が理解するのには大変だったと思います。

感想としては、会長が多岐に渡って深く研究探求されていたことに感服致しました。

資料は先に送られてきていたので読ませて戴きました。小説風に描かれていて面白く読ませて戴きました。

また、メール添付で当日の講演会の内容も読ませて戴きました。

会長の執念の様なものが感じ取れました。

信茂公の裏切りは造られたものだと感じ取れます。私もそう思います。

天目山での勝頼一行は、殆どの家臣の者は居なかったと言う事でしょうか。

だとしたら、7日間もの間、田野に逗留する理由は、・・替え玉作戦だとすれば織田軍を引きつける為の策略であり、本隊は別行動で既に北(真田の郷)に移動していたのでは無いかとも取れます。

小山田家、武田家が復活する事は喜ばしいことであります。

未来の事ですので計画されたものとは思われませんが、心底はそう願って居た事は間違い無いと思います。

わたくし以前から感じていることがありまして、方言でありますが、文中「どうたらこうたらしたとき」小幡村「てのがあったんですね」等は私達の土地でも使われる方言です。と言う事は山梨から高知へ、人と文化が勝頼近衆達と共に移住してきた証拠かと思います。

今一度、勝頼達替え玉説を検証されると何かが見えてくると思います。

信茂公たちは武田家の終焉の場を演出する為の工作で身代わりに成ったと理解出来れば、裏切りを払拭できると思います。

 昨日事務局(武田様)宛に一冊の歴史本を送りました。「野中兼山と谷秦山の真実の罪」著者 岡林照壽という本です。

中身は、野中兼山は土佐藩の家老で事業家でもあり土佐藩24万石を50万石に増やした人物です。谷秦山は土佐藩の学者です。

両名とも勝頼の曾孫と婚姻で深く繫がって居て、幕府の改易を恐れて土佐藩から失脚させられた事件です。中身は読んで下さい。

上記の事を発表する内容に成っています。土佐の江戸前期の歴史を塗り替える内容です。

此の歴史本が人々に受け入れられるように成れば、土佐の勝頼生存説が証明される事に成ります。

 是らは、私が長年研究してきた事で頭がいっぱいに成っていますが、他人からは理解しがたい内容です。そんな事が!

令和5年3月11日(土)に新刊発行記念の講演会を行いたいと計画しています。武田家終焉の日です。

今年は大雪に見舞われ、雪に慣れて居ない南国土佐は大変でした。

                       武田勝頼土佐の会 会長 岡林照壽