顕彰会副会長 島崎晋一より発信します。
鈴木美良様は大月市立七保第一中学校での私の恩師(技術と剣道部)。美良先生は七保一中に赴任する前は七保二中(瀬戸・上和田・駒宮)に居られた。平常門(将門の二男)についての本を出されているが、七保二中赴任されたことが影響されているようだ。
この本を読むことで、小山田氏について再度勉強し直した。
昔から、北富士地方は良くも悪くも富士山の影響をかなり受けてきた。
【悪い点】
噴火による影響 西暦800年には朝廷は、北富士地方の平穏のために、三嶋三社の建立を命じた。この地方の旧社古寺が朝廷の教示により創建されている。これだけ心配される土地ということは火山による作物への影響はかなり受けたと思われる。
【良い点】
富士山信仰で、富士講により金銭的には余裕があった様である。
小山田氏は1192年に武蔵国から地頭として赴任したのが始まりで当初より武田家とは関係無い。時代が進んで、戦国期には武田家とは姻戚関係を結んで武田傘下になるが、姻戚を結ぶということは主従というよりは同盟関係に近いのではないかと思う。本妻と側室(小山田氏)の後継争いから武田氏と小山田氏の十八年戦争になり、武田信虎に小山田氏が負けて消滅の危機となったが、北条の仲介で事なきを得た。和睦条件は下記三つ
- 武田と小山田の婚姻。 それ以前も姻戚関係にあった。さらに深めた。
- 岩殿に十騎の侍をだす(城番) これにて岩殿城の支配はだれか?
- 羽根子の長生寺を小山田氏に与える
小山田家の菩提寺は桂林寺でした。小山田氏はこの後で、長生寺の再建をしたので相当荒れていたと思われ、修理を小山田家にまかせたのか?
上記条件以外に武田信玄になり、税制を国中並に郡内も統一したため郡内の民衆は嘆いた。
臣下の関係か? 長所としては、三国同盟もあり郡内への進攻が無くなった。武田家での小山田家の立場は、下記にことよりかなり信頼を受けた上位であった。
・信玄が怪我のため、代将として小山田出羽守を出陣させた。信玄は代将を用いたのはこの1回だけである。
・勝沼大善寺の大修復を任され、興業を開催して資金調達し修理した。
・徳に信茂公の信認は厚く、武田信玄の長女が小田原の北条氏に嫁ぐ盛儀に甲相郡の総指揮とった。当時14歳武田信玄の葬儀で、葬列4番目の御剣を奉持した。
◆気になったこと
(1)平常門(将門二男)の影響
相馬家の古文書や地名により平常門(一歳)で大月市七保町駒宮に逃げてきた。小山田氏の武勇は平一族の影響を受けているのではないかと著者は紹介している。昔から上和田地区は平家の落人地区とは聞いたことがあったが、この著作で初めて知った。駒宮地区は三十数軒少数ですが駒宮番地となっている。
(2)馬数による武将数の推定
馬場の状況により武将500騎、兵三千と予想されていますが、1武将1頭の馬とは限らないこと、武将の移動などもあり余裕が必要であること、また頭数が多いと餌も多くなるため、私としては、馬場による武将数・兵員の想定は難しいきがする。
(3)岩殿城
【状況 】
・武田氏と小山田氏の十八年戦争の和睦条件により、「岩殿に十騎の侍をだす(城番)」とあるので供回りの人やのろし台の関係者を含むとそれなりの人数の武田氏関係者が岩殿に在住していたとおもわれる。小山田氏の居館(政庁)は谷村(以前は中津森)にある。郡内は東と南から侵入されることが多いので対応するためには谷村が適当な位置と思われる。
・志賀夫人の住まいは大月市の駒橋にあった。
・天正10年3月には郡内は北条に攻められ、岩殿城より北側に逃げ、この時の伝承として「稚児落とし」「ツヅラ峠」など民衆に伝えられた。
【考察】
筆者は岩殿山の周りの地区を含めて城と言っている。実際に葛野川対岸の葛野地区の一番高い集落で「戸並」地区の同級生の家はジョウグチ(城口?)と呼ばれていた。のろしは武田家の重要な事で、岩殿山は地形的にかなり重要な位置にあるため、武田家の支配もかなりあったことが予想される。また、北条氏から猿橋までは数回攻め込まれているので、守備として城の機能はあったように思う。さらに天正10年落城時の伝承などを考慮すると女性が居住する建屋もあったように思う。
(4)笹子峠の通行
【本文】
謀反を否定していますが、記載としてはすでに再起不能で諦めて自刃した内容です。
【小山田信茂公顕彰会】
笹子峠を塞いで裏切ったとの通説ですが、実際にはいろいろな人が通行していたので、峠を塞いでいない。よって裏切っていない。
【考察】
長篠の戦いで小山田軍は1100名の戦死者を出し、武田軍の1割もの被害があったことも考慮すると小山田一族は善光寺で信長に殺害されたが、郡内に被害が及ばなかったことは最良と思われる。武田の臣下は高遠城が武力で落城した程度なので、再起が無いように旗頭になりえる小山田信茂公は殺したのではないかと思っています。
(5)松姫様逃避行
【本文】
「勝頼の妹松姫と仁科五郎(勝頼の弟)の姫と小山田信茂の姫等二人の姫君を同行して塩山在の雲法寺に到着した。翌日は大菩薩峠中腹の石丸峠から都留郡小菅村に向かう予定であった。」と記載
【小山田信茂公顕彰会】
和暦天正10年3月10日(新暦1582年4月2日)は標高の高い石丸峠は女子供では残雪の道は難しいと考える。笹子峠は通行者がおり、小山田信茂公の姫君も同行しているので大月に向った。 大月市七保浅川 ⇒ 棚頭 ⇒ 和田峠 ⇒ 八王子恩方
【考察】
以前のプログで、なぜ桂川沿いの道を通らなかったか疑問だったが、3月には北条が岩殿城を攻めていることから浅川の道を選択したのではないかと思われます。