顕彰会副会長の折笠公徳が報告します。
※2024年11月17日追記 後に島崎副会長の大報告論文を追加しました。)
9月7日(土)、大月歴史研究会・小山田信茂公顕彰会の定期行事
第10回講演会が実施されました。
講演者は、顕彰会を設立されたたいへん学識の高い現在相談役の松本憲和さんです。
ちなみに写真の赤い陣羽織は武田家旧温会のもので家臣の末裔だけに許されるものです。
緑の陣羽織は顕彰会陣羽織です。
松本相談役を御紹介します。
1.ご経歴と専門
・東京を拠点に「源氏物語」読解の啓蒙活動を行う古典研究家
・郡内小山田氏研究で著名、20年以上小山田逆臣説を否定
2.家系
・甲斐武田氏の遺臣の子孫
・天正10年、織田・徳川連合軍の侵攻時に、祖先が武田家の勝頼公の
2歳の男児と伯母を埼玉県坂戸まで護送
3.研究の軌跡
・小山田氏裏切りの通説に疑問を抱き、勝頼公の歩んだ道を何度も追跡
・古文書を駆使し、武田遺臣の足跡を解明
・「理慶尼記」朱稿本の発見により小山田逆臣説を否定する新史料を提供
次に講演内容の紹介です。
今回の講演内容を要約すると
『史料の信憑性の疑問視
「甲陽軍鑑」は伝聞情報に基づく部分が多く、特に小山田信茂の裏切りのエピソードについての信憑性が疑問視されている。
「甲乱記」と「朱稿本理慶尼記」は、特定の日付や事件についての情報が曖昧または欠落しており、信頼性に欠ける要素がある。
伝聞情報の確認と一致の欠如
「甲陽軍鑑」と「甲乱記」の記述には一致した部分もあるが、実際に発砲があったとの記録が「甲乱記」に欠けているなど、情報が交錯している。
「朱稿本理慶尼記」は伝聞や想像に基づく可能性が高く、他の史料と矛盾する部分も多い。
証拠としての小宮山又七の脱出
小宮山又七や北条家臣が脱出したとの記録があり、彼らが現場の実情報を後世に伝えた可能性が示唆されています。
小山田信茂の行動の不一致と疑問
小山田が裏切ったとする記述がある一方で、彼の一門による迎撃や勝頼への忠誠を示す行動が記録されており、矛盾が見られる。
発砲の責任者とされる小山田八左衛門が罰せられず、後に武田側から処罰されていないことは、裏切りの行動と一致しない。
大月岩殿での勝頼の意図
勝頼が大月に移動しなかったことや、田野で自決を選んだことから、彼自身が初めから籠城する意図がなかった可能性がある。
勝頼が小山田信茂に裏切りを持ちかけたという指摘自体に合理性が少なく、勝頼がむしろ信茂に対して自決の決意を語った可能性がある。』
松本相談役は今回の講演で一番訴えたかったのは黒字の部分です。
その部分を今回作成したパワーポイントで詳細を紹介します。
今回の講演で更に小山田信茂公の裏切り説は、歴史研究のアプローチから否定されました。
今まで以上に濃い内容で、改めて歴史探求の深さを知りました。
特に歴史を探求していく上でのアプローチ方法を学ぶことができました。
聴講者の方からも、とても歴史的なお話でたいへん面白かった。参考になったと好評でした。
このお話は11月の市民講座に繋がります。
※2024年11月17日追記
顕彰会副会長の島崎晋一が報告します。
A4版の大論文です。