2022年4月19日 投稿
1.小山田氏の発祥
平安時代の末頃、関東を代表する豪族に秩父荘司重弘という人がいました。その子・有重が武蔵多摩郡小山田荘(現町田市付近)に拠って小山田氏を名乗りました。その四男六郎行幸(ゆきよし)が、祖母の所領地であった都留郡田原(現都留市)を受けて郡内小山田氏を起てたと伝えられています。
2.戦国時代の甲斐国
今らか500年ほど前の戦国時代、甲斐国(現山梨県)は、3人の国人領主が治めていました。甲府盆地一帯は武田氏、甲斐南部は穴山氏、そして東部は小山田氏です。
武田氏は、甲斐全体を束ねる守護の立場にありましたが、やがて戦国大名となりました。武田氏の国中に対し、小山田氏は郡内領主と呼称されていました。
3.武田氏と小山田氏の関係
武田氏と小山田氏は、鎌倉以降、数回にわたり婚姻を重ね親戚関係にありました。両者は対立したり、和睦したりしていましたが、信虎の時代になって、越中守信有が信虎の妹を娶り、両者の間に和議が成立しました。
4.小山田氏の首領
1)15代越中守信有
永正8年(1511)郡内領の領主となった信有は、羽根子に長生寺を再興しました。永正17年、岩殿城中の円通寺再興の際には武田信友(信虎の弟)と協力し、寺社の再興や建立に力を注ぎました。外交面では、今川氏との和睦を図るなど、甲斐の東方を守るために活躍しました。越中守信有は小山田3代の基礎づくりをしました。
2)16代出羽守信有
天文11年(1542)出羽守信有の時代。信有は早くから郡内の経済振興に取り組みました。土地の生産性が低いので、秩父から機織りや養蚕の技術を導入して殖産に努めました。また、農民の減税をし、独自の郡内枡を作るなど、様々な改革に取り組みました。
天文17年ころ出羽守は、北条氏の領地から郡内に、小田原の刀工「元近」を招きました。
そして郡内36社にご神剣を奉納しました。
また、武田氏(信玄公)の作戦にも陣頭に立って活躍しましたが、天文19年戸石城戦でかなりの傷を負ったようです。それでも、武田氏に代わり勝沼の大善寺の大修復を成し遂げました。天文21年出羽守信有の葬儀には、1万人が参列したと伝えられます。その頃の郡内の人口は約4万人と言われていることから、出羽守は領民の多くに慕われていたと思われます
3)第17代左兵衛尉信茂
天文21年(1552)信茂は14歳で家督を継ぎました。翌22年には桂川の岩殿橋も架けかえられ、郡内には富士参拝者があふれるほどでした。
天文23年には、武田信玄公の息女黄梅院が小田原北条氏に嫁ぐにあたり、信茂は「蟇目(ひきめ)」役という大役を立派に果たしました。お供の騎馬3千騎、人数は1万・・・金銀の鞍、黄金づくりの太刀などという盛大な祝儀を、信茂は終始堂々と取り仕切ったと言われています。
このことは、信茂の才覚はもとより、少年信茂を支える側近の人達の連携の強さと、小山田3代に対する深い信頼を物語っていると思われます。
戦(いくさ)においては、武田軍中、小山田勢は最強の軍団と言われました。
小山田隊には投石の技を磨いた者たちがいて、その投石の飛距離は200~300メートルに達しました。鉄砲が優勢になるまでは大きな威力を発したに違いありません。
こうして先陣に立って活躍した信茂は、「文のことは信茂に聞け」と信玄公に言われるほど、文武両道の武将でした。永禄4年(1561)には、武田家の「弓矢の御談合」七人衆に加えられます。
5.小山田氏の独立性
一般には、信玄公の戦国大名としての姿が華やかに語り継がれたので、武田氏が河内と郡内を含む甲州一円を支配したと捉えられる傾向があったようです。
小山田氏は天険と長い伝統的勢力により、一種の独立性を保持していました。河内領の穴山氏もほぼ同じ立場にあり、武田親族衆の巨頭にありながら、独立性を誇示していました。このニ領は、武田全盛期においても完全には直領化することはできず、二重の支配権を許していたものと思われます。
その一例として、興味深い史料があります。
小山田氏は、富士参拝者から通行税を徴収していましたが、銭として欠けたもの金属片が持ち込まれることを禁止しました。参詣口に役所を設け、奉行を置き、悪銭改めを厳しく行いました。
これに対して、小山田弥三郎に宛てた信玄公自筆の文書があります。
内容は、北条氏へ嫁いだ女の安産を願い、武田氏が設けていた都留郡内の川口・船津の関所を寄進の意味で撤廃しました。ところが、これらが再開されたと聞き驚き、小山田側を糾弾するものでした。
しかし、これらの関所は、先に設けられた撰銭のための役所が、両関の再開と誤解されたという見方があります。なぜなら、その後のトラブルを示す文書や記録が見られないからです。(小山田了三『武田家の再興』)
6.信茂逆臣説について
小山田信茂は、武田の親族衆として、20歳以上年上の信玄公と5歳下の勝頼公をよく助け、強力な軍団を率いて尽くしてきました。しかし、小山田氏はどんなに功績をあげようと領地を付与されたことはありませんでした。なぜなら、小山田氏は武田氏の直属の家臣とは言い難かったからです。武田氏とは、安全保障上の同盟的関係にありました。
天正10年(1582)織田・徳川連合軍が、甲斐領に侵攻を開始しました。近代兵器と職業軍人を備えて、何もかも焼き尽くすという作戦で迫って来ました。いち早く、親族衆の木曽氏や穴山氏が寝返りました。
武田勝頼は、韮崎に築いたばかりの新府城を焼いて、郡内の岩殿城行きを決めました。しかし、笹子峠の麓に着いた時、小山田側は、峠を全面封鎖して、勝頼一行を郡内に入れませんでした。それ故、勝頼一行は天目山を目指して、田野で自刃しました。
これが小山田逆臣説として、長い間通説とされていました。しかし、近年多くの研究により、逆臣説は見直されるようになりました。戦国領主は、最終的には領土と領民を守る義務があります。戦国の倫理からは信茂の苦悩の決断は当然のことと理解されるようになりました。
そして、最近新たな史料が発見され、勝頼公の最後の9日間が解明されました。
なぜ、勝頼公は笹子峠の麓に滞留したのか。
なぜ、郡内に向かうには、整備された御坂路があるのに、なぜ笹子峠を進んだのか。
なぜ、松姫は、信茂の孫娘を連れてにげてくれたのか。
これらの疑問を抱きながら、研究が続けられ、ついに、郡内を通って、武蔵野国へ逃げた武田遺臣たちが大勢いたことが証明されました。
戦国大名としての武田氏と郡内小山田氏は滅びましたが、武田氏の血筋と小山田氏の血筋をひく武田家は元禄13年(1700)に再興されました。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時代、ちょうと忠臣蔵で有名な赤穂浪士騒動の少し前の時代です。信茂の願いが118年目にしてかなったのです。
7.信茂以後の小山田氏
8.関連イベント バスツアー 「小山田信茂公顕彰会 史跡めぐりの旅 (第2回)」
バスツアーの目的
小山田氏は、武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)に尽くし甲斐の国を守りました。
郡内最後の領主となった小山田信茂公は、自らの命と引き換えに、郡内を救いました。
(織田・徳川連合軍の郡内侵略は無く、郡内領民、神社仏閣は、被害一切なし)
小山田信茂公顕彰会は、小山田氏とその一族について学び、地域の歴史を正しく知り、
街おこしに協力し、次世代に誇りを持って郷土を伝えたい。
そして、天正十年三月の信茂公の思いを感じてみませんか。
信茂公は、本当に武田家を裏切ったのでしょうか。
貴方が信茂公ならば、どちらを選択されますか。
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